庭づくりの最高のお手本は自然。
自然の美しさにかなうものはない。

これからの庭とは

「なんでもない」自然の庭

 ほんの二、三十年前までは、家に和室や床の間があるのが当たり前で、そこに日本庭園が添っていました。それが今ではマンション住まいやフローリングが普通になって、日本人の衣食住すべてにわたって「和」が薄れつつあります。それなのに、庭だけが時代から取り残されたかのように和風のままというのはおかしな話です。また一方で「庭をデザインする」といって、直線や曲線を組み合わせた奇抜な庭がつくられたりもしていますが、現代においてそういった庭は本当の意味での癒しにはならないことに、時代が気づきだしているのではないでしょうか。ベースをしっかり踏まえてさえいれば、庭は自由でいい。そうやってこれからの庭を考えるとき、蹲踞と燈篭があれば和風の庭になる、という考えは通用しなくなっていくでしょう。
そしてこれからの庭、それは、自然の中にいるような「何でもないシンプルな庭」になっていくでしょう。ただ、これは簡単そうで一番難しいんです。なぜかというと見せ場がないから。見せ場がないとは「どこを見てもよい」と感じられることです。わかりやすい例でいうと、龍安寺石庭のような庭は、見る方向が決まっていて、横から見るようなものではありませんよね。でも自然を見て「ここから見るといいけど、裏から見るとヘン」ということはないわけです。それを人の手で再現するには、人間が自然をいかに読めるかにかかっています。私の師であり、雑木の庭の先駆者として知られる飯田十基氏の凄さはそこにあります。自然に逆らわず、作為を感じさせない。だから巧い庭ほど自然を感じさせ、つくられた庭であることを気づかせない。つまり技を見せないわけです。特にほめるところもなければ、けなすところもない、眺めながらボーッとしていられるような庭がつくれれば理想的です。

自然を知り、日本を知る

 山の景色を組むには、何より自然を見るしかありません。山に入って、川石がどう据えられているか、幹の並びや向きは、石が実際にどう転がってくるか、そうやって観察しながらスケッチブックにとにかく描くんです。そうするとだんだん自然の景色が身についてくる。いくら写真に撮ったってダメですよ。見た気になるだけですから。

天然の石だって山の木だって、基本的にパーツはきれいなものです。ですから植木屋の技量が足りないと、単に数を植えてごまかしちゃう。もしくは変わった木を入れようとする。でもそういう木は概して弱いから、雰囲気や珍しさだけで安易に植栽するとみんな枯れてしまう。そして枯れたら補植をしたり、やりかえる。それはごまかしです。
本来、植木屋は「なぜその場所にその石や庭木を植えるのか」「三年後、五年後にどう育つか」を熟考した仕事をすべきではないでしょうか。好例が、東京のど真ん中にある明治神宮の杜です。樹種の組み合わせや生長による変化など、植物がどういうものかを把握した上で、長期的な視点にたった植栽計画だったからこそ、百年近くたった今でも、人の手を加えずに長く維持することができ、当初の計画通り明治神宮の杜へと生長しています。東京・新宿の京王プラザホテルの外空間も同じです。今から約四十五年前、日本で初めての高層ホテルをつくったときに、限られた外空間に里山の景色をつくろうと、造園家の深谷光軌氏が手がけたものが生長し、都市景観と調和しています。

素材を知り、お客様の好みを知り、庭木や石を組み合わせることが作庭家の仕事。庭づくりにはつくり手の素養が表れます。「いい庭をつくるには『遊び』を知らなければ」作庭家だからといって庭だけやればいいというものではなく、視野を広げて感性を磨くことは大切です。そうやって培った柔軟性が創意工夫に結びつく。だから探究心が不可欠です。
時代が移ろい、生活のあり方が多様化する中で、日本のことを知らない日本人が増えてきました。でも、日本の庭をつくるからには、まず日本を知らなければなりません。日本の伝統的なことや文化的なことを知る、良いものを見ることができる、その最たるものが茶の湯でしょう。そして茶の湯の素養のひとつに庭があるのです。茶の湯とは季節感を楽しむもの。季節ごとの菓子を味わったり、その時季ならではの器を使ったり、生活の中に「茶」が入ってくるだけで、人生が楽しくなりますし、どれだけ心が豊かになることでしょう。そうやって脈々と流れているものに日本人の素質があり、それに基づいたものこそ真の伝統ではないでしょうか。
我々作庭家は、できるかできないか、ただその一点です。知見を深め、世の中をよく見て、今の時代が庭に何を求めているのかを一所懸命に考えること。そうやって危機感を持たないと、誰からも庭は求められなくなってしまいます。